写真における作品の文学性-その2 記号とその用い方について

 写真とは伝えるものだ、という考えが有る。

 でも、何を伝えるのか、どの様に伝えるのか、本当に伝わるのか。これに真面目に取り組む事は本当に難しい。仮に十分な根拠と裏付けのある発信が出来たとしても、それで的確に自分の視点や観点を人に伝え、相手の理解と共感を得るとは限らない。

 実はもう一つの考え方があって、それは、

 写真は伝えるものではなく、喚起させるものだ

 というもの。これは、言葉は色々違っても昔から主張されてきた、写真に関する一つの考え方だ。

 人は特定の情報を元に背景や前後のストーリーを、良くも悪くも勝手に補完してしまう。写真にしてもそうだ。
 この人の性質は、大いに利用できる。つまり、上手くすると一枚の写真から見る人にストーリを喚起させる事が出来るのだ。

 そう言う写真を撮るにあたって、考えるべきは以下の2点

●どんな記号を使うか
 社会の中で一定の意味を持っているものが有る。
 指輪、ピアス、花束、ナイフ、薬の瓶etc
 
 小さくてもわずかでも、人に意味ありげな印象を与えるものがある。
 目のような何か、高い壁、ドア、窓etc
 それらは写真の中でいかにも意味ありげだ。

 例えば結婚式を考えてみると、装飾具やドレスや場の飾り付け等、結婚式を表す記号を沢山挙げる事が出来ると思う。

●どのようにその記号を提示するか
 例えば、木の枝を記号として、それを写真の中に取り込むことを考えてみよう。
 次の写真を思いに描いてほしい。

 「枝が、林の中に落ちている・・・」

 これは当たり前の光景だ。このような状況では枝は記号としては認知されにくい。
 次の写真はどうだろう。

 「枝が、舗装された道路の真ん中に落ちている・・・」

 枝が道路に落ちている、というのは普通考えにくい。つまり、そこには何か理由があったはずだ。
 ・・・と、考えるともう写真家の術中にはまっている。

 上記の枝の写真の例では、なぜこれが此処に?
 という感覚が、前後の文脈を想起させている。
 つまり、写真の中にあるもののわずかな不自然さを通して、見る人に注意を喚起し、前後のストーリーを想起させる事が出来るのだ。


 昔、自分が学校写真を撮っていたころ、卒業アルバムのインサートカット用に次のような写真を撮った事があった。

 「バスケットのゴールの下に運動靴が転がっている」

 この写真は当時保護者達に、学校生活の状況を感じられるという事で大変好評だったそうだ。

 でも冷静に考えてみると、バスケットのゴールの下に運動靴が転がっているなんてことは無い。明らかに不自然だ。言うまでもないが、その靴は自分でわざとそこにそう言う風に置いて撮影した。

 しかし、運動靴、バスケットのゴール、校庭、夕日と言った記号、そしてその組み合わせの意図された不自然さ、これらが見る人の注意を喚起し、記号から思い出の総体の様なものを想起させた。
成功だ。


*この写真はブログの筆者が撮影
 地元をねじ伏せた強引な住宅地開発
 と言う風にも見えるけど、この消火栓の看板はただ倒れているだけです。
 念の為。

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