このブログについて

このブログの内容は、現代美術家のづてなおと氏の写真に関するレクチャーを再構成した物です。
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写真の撮り方

写真を撮る行為は、ノッていて思わず無茶苦茶な英語を口走ってしまうのに似ていると思う。
つまりは自分をさらけ出すという事で、それは本人にとってはとても恥ずかしい行為だ。

フェイスブックやインスタグラムに投稿される写真は違う。人に見られる事を意識して恥ずかしく無いように撮られている。
でも、そういう写真はありきたりだし見飽きる。

やはり赤裸々にパンツまでさらけ出した写真の方が個人的には魅力を感じる。
どうしたら撮れるのか。やっぱり恥を捨てるしかないと思う。
自分を良く見せようとしていると、いつまでも限界を超える事は出来ない。

制限とテーマと創作意欲

 創作過程という話について述べるなら、構想から表現方法まで自由に選び書くことが出来る小説と、テーマもフォーマットも有る論文のどちらの方が書くのが楽かと言えば、自分はという事では論文の方だ。
逆説的だけど実感として、自由に出来ない事、制限が有ることは却って創作意欲が高まり、仕事もはかどる。  

 仕事が捗る理由は、制限が有る方が作業の道筋が分かりやすいという事で何となく分かる。 制限が有る方が創作意欲が湧くというのはどういう事かと思うけど、これは多分、反抗の精神にも似た複雑な心理がそうさせるのではないか。
ルールを課せられる事によって、要求に添わなければ完成しないという焦りのような気持ちや、それを逸脱したい気持ちもまた湧き、それが力になるような気がする。

  世に残る宗教画や肖像画の傑作を見ると、これを描いた人は色々な事を思いながら描いたのだろうと想像する。

褒める事の勧め

 以前、タクシードライバーをしていた頃、乗客の若いあんちゃんに

「運転上手いですね」

と褒められたことがあった。そうしたらすぐに、その人と一緒にいた兄貴分らしい人がこのような事を言った。

「お前、運転のプロだぞ。プロに向かって、上手いですね、とは、失礼じゃないか。すんませんねぇ」

 何かを褒めたり褒められたりするのにいちいち気を使わないといけないとは、人間関係複雑なものだ。まあ仕方がない。世の中には目下の者から褒められると怒りだす狭量な人もいるのだろう。
(勿論自分はその時全くそのようには感じなかったし、むしろ誰からでも褒められるのは嬉しい)
 
 作品を褒めるというのはどうだろう?
 自分はその作品を作る技術が無いとか到底及ばないと感じる時にも、それでも何か意見を言ってみても良いだろうか?
 
原則としてそれは良いと思う。何かを良いと感じるのは共感だし、その何かを褒めるというそれ自体も表現行為だ。作品を一緒に楽しみ、表現の輪に加わっていると言っていい。
これは作品を発表している者にとって、嬉しい反応だと思う。
生意気なやつだとかそれは的外れとか、そんな事は普通は思わない。

 良いと思ったら、言葉にして褒める。それは基本的に、表現者同士お互いに良い事だ。
その事によって、もしかすると冒頭に述べたように心身ともに疲れたり反省したりしないといけない事態に陥るかもしれないけど、でもそうして行かないと表現者としてより先には進めないと思う。

写真は引き算の複雑さ

 写真は引き算と良く言われる。

 昔某カメラのTVコマーシャルで篠山紀信が「写真ってのはいいと思ったら何にも考えずとにかくそれにぐっと近づいて撮れ」と言う意味の事を言っていたのを思い出す。写真における引き算とは、普通はそういう事を言うのだと思う。
つまり、簡単に言えば画角に対してそれを大きく撮るという事だ。

 これは結構難しい。理由は写真を撮っていると主題だけでは無くその場の雰囲気も写真の中に収めたくなってしまうから。でもこれはもっと難しい。その場の雰囲気を撮るにはただ周りを沢山写し込むだけでは上手く行かない(事が多い)。
 それで、撮る側はいきおい演出に走る事になる。
 そしてこの写真における演出と言うのがどうも曲者で、演出過剰だと何だかそれが見え見えの写真になってしまう。

 その点、「イイと思ったものにぐっと近づき撮る」 というのは、単に写すものの要素を減らすだけでは無く、写真として過剰な演出を減らすと言う方向でも引き算になっている。


 所で、突き詰めて考えて行くと、何かをいいと思うとか、撮るに当たり演出をしない、というのも一種の評価であり演出だ。それさえもしない写真と言うのは有りうるのだろうか?

芸術としては有りうると思う。何もかも諦めきったような写真は確かに有りうるし、その足し算でも引き算でもなく本来の意味でのヨガの思想みたいな写真はすでにだれかが撮っているだろう。

待つ事について

 晩秋から12月、そして2月の初め位までの季節は、風景写真を撮るのに大変都合がいい。
低い太陽は、見えるもを立体的に見せてくれる。
あとこれは関東地方の話だけれど、空気が乾燥していて、空は青く遠景までくっきり綺麗に見える。

 本格的に風景写真を撮りたいと思ったら、じっくり腰を据えて、その場で一枚の絵を完成されるつもりで取り組むと良いと思う。

 一枚の写真を撮る事に時間をかけると言うのはどういう事かと言うと、その場に早く到着して、それで待つという事だ。
待っている間に風景は変わる。光が変わるのは勿論の事。近景の構成メンバーも変わるだろう。

そして、そこに立つ自分の気持ちも変わってくる。
(もしそこにいて飽きるなら、その写真を壁にかけた人は見飽きないだろうか?)

 所で風景は、目で見た感じと写真をプリントした感じはまた違うので、同じ場所で時間を少しづつずらして何枚も撮るのは良い研究になると思う。その際、露出も変えてアンダーからオーバーまで何枚か撮っておく。特に朝夕。

プロをプロ足らしめている事

 自分が広告業界に入った当初、新人に求められる仕事としてよく高所作業を行った。
スタジオの高い屋根に渡された骨組みに登って色々な作業をしたりする仕事だ。

 初めに命じられた時には、そこは高すぎて自分にはとても出来ない仕事だと思った。実際、足を滑らせて下に落ちでもしたらただ事では済まないだろう。
しかし先輩から、まずこの、人の背丈位の脚立に登ってみろと言われたので登った所で、それに登れたら大丈夫だと言われた。

 人の背丈の高さが有る脚立に登るのは怖い。登っている間は恐怖を感じ続ける。でも、分かったのは、もっと高い所に登っても怖さは同じだと言う事だ。脚立に登っても、スタジオの骨組みに登っていてもその怖さは変わらなかった。
つまりは、やれば出来るという事だ。

 高所作業を行うとび職の働きは確かにプロフェッショナルのそれで、敬意も、勿論お金も払うに値する仕事だ。だけどそれは、自分の経験の中で分かった事なのだけど、誰にもできない仕事と言う訳ではない。

 自分にはとても出来ないと思われる仕事、それはプロフェッショナルの領域だ。でも本当の所は、普通の人にも出来る事なのに、業界がプロにしか出来ないと思わせているだけなのかもしれない。
またそうやって仕事を得ているだけかもしれない。

 でも、人にとても出来ないと思わせるというのはなかなか難しい事だ。そこを、流石プロと言うのはちょっと意地悪な言い方だけど。

フレーム等によって人物を切る事について

19世紀も終わりには写真が随分普及してきて、絵画にも影響を与えた。

ドガは、写真のような大胆な構図の絵画も残している。
人物をフレームからはみ出させたり、被写体とカメラの間に偶然写り込んでしまったかのようにポールを描いて絵を分断させたり、まるでスナップ写真のようだ。

The Orchestra at the Opera
https://www.google.com/culturalinstitute/asset-viewer/the-orchestra-at-the-opera/zgGLjRgFDFBXbA?hl=ja&projectId=art-project

Swaying Dancer
https://www.google.com/culturalinstitute/asset-viewer/swaying-dancer-dancer-in-green/PAG7nnYIK8XTTA?hl=ja&projectId=art-project

今でも、隣の人をズバッと半分に切ってしまうとか、背景とは言え人の首から上を切ってしまうというのは、写真の表現としてありえるという事だろうか?
それは分からない。
(切られた本人はあまり嬉しくはないだろうとは言える)

ただ、過去にそう言った表現が、綿密に構成される絵画において試みられた事が有り、しかもその絵は今でも評価されているという事は、頭の隅に置いておいてもいいと思う。